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東京高等裁判所 昭和56年(う)6号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中五〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人黒木芳男作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官窪田四郎作成名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意第一(不法に公訴を受理した旨の主張)について

論旨は、要するに、本件起訴状は日時、場所及び方法を以て罪となるべき事実を特定して訴因を明示していないから、刑事訴訟法二五六条三項に違反する公訴提起として同法三三八条四号により公訴棄却の判決をなすべき場合であるのに、事件の実体につき有罪の判断をした原判決は不法に公訴を受理したものというべく、同法三九七条一項、三七八条二号前段により破棄を免れない、というのである。

そこで、記録を調査して検討すると、本件公訴事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和五六年八月中旬ころから同月下旬ころまでの間、東京都内某所において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン相当量を自己の身体に施用し、もって、覚せい剤を使用したものである。」というのである(ちなみに、原判決の認定した罪となるべき事実も、これと全く同文である。)。

ところで、原判決の援用する最高裁判所昭和五六年四月二五日第一小法廷決定、刑集三五巻三号一一六頁は、本件公訴事実と略々類似の公訴事実の記載につき、「日時、場所の表示にある程度の幅があり、かつ、使用量、使用方法の表示にも明確を欠くところがあるとしても、検察官において起訴当時の証拠に基づきできる限り特定したものである以上、覚せい剤使用罪の訴因の特定に欠けるところはない」旨判示している。右説示中、「検察官において……できる限り特定した」云々の部分は、刑事訴訟法二五六条三項後段において「できる限り……特定して」と規定しているのを承けて、当該事案においては、起訴当時公訴事実をそれ以上詳らかにすることができない事情があったことを、日時、場所等につき幅のある表示をすることが許される条件の一つとして指摘する趣旨と解される。

訴因の特定とは、本来検察官の主張それ自体としての明確性に関する問題であるから、これによって「裁判所に対し審判の対象を限定するとともに、被告人に対し防禦の範囲を示す」という同法二五六条三項の目的に照らして考察すべきものであり(最高裁判所昭和三七年一一月二八日大法廷判決、刑集一六巻一一号一六三三頁)、右小法廷決定は、覚せい剤使用罪の公訴事実につき、当該事案における訴因の記載方法が同条項所定の目的を害することにはならないとの具体的事例に対する判断を示したものと解すべきである。

本件公訴事実の記載は、右小法廷決定の事案と対比すれば、その日時の幅(決定の事案では八日間)が一層広く、使用方法の表示が一層漠然としているほかは、概ね大同小異と言い得るのである。そして、訴因を特定することの意義は、これを他の訴因と区別し限定すること、とりわけ、その日時、場所の如何により、法令(条例を含む。)の時間的、場所的適用範囲、公訴時効の成否、裁判権、土地管轄等に異同を生ずべき場合において、異なる裁判結果に終る可能性のある(従って、これに応じてその防禦方法を異にすることあるべき)他の訴因と区別することにあるものと考えられるところ、本件公訴事実に表示された日時、場所の幅の中では、右のような異同を生ずる可能性は認められない。してみれば、本件において、日時の幅が「八月中旬ころから同月下旬ころまでの間」とおよそ二〇日間に及んでいること(もっとも、被告人は同月二五日別件で逮捕され、翌二六日本件鑑定資料とされた尿を任意提出しているのであるから、少くとも逮捕時点以降は除外するのが正確である。)は、訴因の特定上、それほど問題を生ずることはないものと言うべきである。

もっとも、同一人が一日数回使用することも稀でない覚せい剤使用事犯の特質に鑑み、右のような幅のある日時の表示では、この間に数回の使用がなされた可能性も否定できないが、この点に関しては、原審第三回公判期日において、検察官は、公訴事実記載の期間中数回の使用があったとしても、その最終の一回分だけを起訴した趣旨である旨釈明しているから、右可能性の存在は、訴因の特定を害するものではない。

次ぎに、覚せい剤使用事犯にあっては、その使用方法は、他の使用事犯と区別するに足るほどの個性を持たないのが通例であるから、「犯行方法」の訴因特定機能はさして高いものと言うことはできず、逆に言えば、これを具体的に明示していないからと言って、直ちに訴因の特定を欠くものとは言い得ない(もっとも、覚せい剤取締法上、覚せい剤の「施用」とは、その「使用」とは異る意義内容を有する概念とされているのであるから、使用罪の方法として「自己の身体に施用し」云々と表示するのは、明らかに失当というべきであるが、その趣旨とするところは、自己の身体に注射し又は服用したことを表現するにあるものと解されるから、もとより訴因の特定を害するほどの瑕疵と言うを得ない。)。

以上のように、本件公訴事実の記載は、日時、場所の記載にかなりの幅があるけれども、その幅の中のどの日時、場所を採っても法令の適用上異る裁判結果に至る可能性はなく、また、その幅の中に含まれる唯一回の行為のみを起訴したものであるから、訴因としての特定性に欠けるところはなく、当該訴訟手続内においても、また、二重起訴の禁止、既判力の及ぶ範囲の点から考察しても、被告人の防禦活動に支障を来たすことはないものと解すべきである。

ちなみに、フェニルメチルアミノプロパン自体は徴黄色の液体であって水に殆ど溶けない物質であり、通常覚せい剤として出回っているのはその塩類であって、無色ないし白色で水溶性の結晶ないし粉末であること、尿中から検出された覚せい剤については、塩類形成の有無、種類を確定し得ないため、単にフェニルメチルアミノプロパンとのみ記載する例であることよりすれば、本件公訴事実が、使用対象である薬物を「覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン」と限定的に表示していることに疑問の余地はあるが、その趣旨とするところは、「フェニルメチルアミノプロパンを含有する覚せい剤」と言うにあるものと解される。また、その使用量は、訴因の特定要素ではなく、構成要件要素と考えられるが、犯罪の成否よりはその刑責の大小に関わるものであり、通常の使用事犯ではおおよそ一定の範囲を想定し得るものであるから、これを具体的に特定し得ない事情がある場合においては、「相当量」と表示したとしても、訴因の明示に欠けるところがあるものと言うことはできない。

叙上の次第であって、本件公訴事実は、訴因の特定、明示に欠けるところはないと認められるから、所論はその前提を欠き、理由なきに帰する。

控訴趣意第二(事実誤認の主張)について

論旨は、要するに、被告人が覚せい剤を使用したとの公訴事実は、全く身に覚えのないことであり、原審の有罪認定は事実を誤認したものであると主張し、その理由として、(一)被告人は捜査段階から一貫して無実を主張しており、その供述は信頼し得る、(二)被告人は、覚せい剤使用者の用具である注射器、秤を所持せず、また、その身体から注射痕が発見されていない、(三)有罪認定の唯一の証拠は被告人の提出した尿中から覚せい剤を検出した旨の鑑定書であるところ、(1)右鑑定書については、被告人の提出した尿量と鑑定資料とされた尿量との間におよそ三倍の開きがあり、提出した尿につき容器の封印が履行されず、その保管方法も、多数の留置人が往来する留置場内の洗面台の下に朝まで放置されていたので、留置人による異物混入の可能性があったことからして、被告人の提出した尿と鑑定資料とされた尿との間の同一性に疑問の余地があるのみならず、(2)赤外吸収スペクトル方式による鑑定は、「極めて高度の蓋然性を以て」フェニルメチルアミノプロパンを確認できるというだけであって、その「存在」の証明とは異り、また、(3)覚せい剤を身体内に「保有」しているということは、その「使用」を推認させはするが、直ちにこれと同義でないことは、道路交通法が、運転時におけるアルコール「保有」を処罰の対象としながら飲酒すなわちアルコールの「使用」そのものは処罰対象としていないことの裏返しとして容易に理解できるのであって、「保有」すなわち「使用」と即断することは許されないのであるから、右鑑定書は断罪の証拠となすに由ないものであることを挙げている。

所論に鑑み、記録を調査して検討すると、以下のとおりである。

被告人が一貫して本件犯行を否認していること、被告人の身辺から注射器、秤等の器具が発見されず、また、被告人の身体に注射痕が発見されなかったことは、所論のとおりである。

従って、本件覚せい剤使用事実の認定に当っては、被告人の任意提出した尿中からフェニルメチルアミノプロパンが検出された旨の鑑定結果が最も重要な証拠となる。

《証拠省略》を総合すれば、被告人の尿の任意提出から鑑定に至る間の経緯として、次の事実が認められる。

①  被告人は、昭和五六年八月二五日、別件の覚せい剤譲渡容疑で逮捕され、警視庁荻窪警察署に留置されたが、膀胱結石で尿の出が悪かったため、翌二六日午後六時少し前ころになって、初めて尿意を訴え、採尿に応ずることを申し出た。

②  被告人の採尿には、当初児玉巡査部長が立会ったが、排尿開始前に所用で三上巡査と交替した。三上巡査は、被告人が紙コップの中に排尿するのを確認したうえ、これを被告人から受取ったが、その尿量は紙コップの底から約三センチメートルの深さであり、これを新品の採尿用ポリ容器に移し替えると、その深さは底から約二センチメートル位であった。

③  三上巡査は、封印用の紙テープと糊をあらかじめ用意していたが、採取量が少なかったため、後から追加させることとし、本人の了承も得て封印を施さず、内蓋と外蓋で容器を密閉したうえ、被告人の収容されている六房から見える位置の看守台の前の洗面所の流しの下の床の上にこれを置き、当夜は宿直勤務なので、排尿するときは自分が立会うから連絡するようにと被告人及び看守勤務の大矢巡査に依頼しておいた。

④  同夜から翌朝にかけて、看守台には大矢巡査と石原巡査が交替で勤務していたが、用便や洗面、夜具の出し入れのため出房した留置人で、右ポリ容器に触れた者はなかった。

⑤  被告人から用便の申出がなかったため、三上巡査は二七日午前八時三〇分ころ右ポリ容器を自室に持ち帰り、科学捜査研究所に鑑定可能かどうか電話で問い合せ、ポリ容器に被告人の氏名等を記載したうえ、鑑定嘱託書とともにこれを同研究所に持参した。

⑥  同研究所では、第二化学科の青山主事がこれを受取ったが、ポリ容器内の尿量は、底から約二センチメートルの深さで約五〇ミリリットルであった。同人が鑑定した結果、フェニルメチルアミノプロパンが検出された。

⑦  当時、荻窪警察署には五名の覚せい剤事犯の留置人が収容されていたが、同署で採尿したのは七月二二日に松本、八月二五日に高木の二名であり、高木から採取した尿は翌二六日に科学捜査研究所に鑑定嘱託している。

《証拠判断省略》

以上によれば、被告人の任意提出にかかる尿量と鑑定資料とされた尿量は一致しており、任意提出から鑑定嘱託に至るまでの間に異物の混入、他の者から採取した尿との取違えの可能性は全くなく、また、《証拠省略》によれば、鑑定資料が科学捜査研究所に送られた後、他の鑑定資料と取違える可能性もなかったことが認められる。

従って、所論にもかかわらず、被告人の任意提出した尿と鑑定資料との間には同一性があるものと認めるのが相当である。

次ぎに、青山喬作成の鑑定書によれば、本件鑑定においては鑑定資料からの抽出物の塩化白金酸塩を作成し、赤外部吸収スペクトルを測定する方法が採られていることが窺われるが、宮野豊外一名の「尿に含まれる覚せい剤の鑑定について」と題する論文によれば、右方法は、化合物固有の分子振動を利用したものであって、資料のスペクトルと標準化合物(本件の場合は、フェニルメチルアミノプロパン塩化白金酸塩)のスペクトルが一致する場合には、他の化合物である可能性は全くないというのであるから、本件鑑定資料中にフェニルメチルアミノプロパンの存在を確認することができる。

さらに、所論は、フェニルメチルアミノプロパンを身体に保有することは直ちにこれを使用したことと同義ではないと主張するが、たしかに、使用以外の態様(誤用、強制等)で身体保有の状態を生ずる可能性も絶無とは言い得ないにせよ、そのことを疑わせるに足りる何らの客観的状況も見当らない本件にあっては、あくまで理論上の可能性に止まり、覚せい剤の使用を認定する上での「合理的な疑い」の域には達しないものと言うべきである。

叙上説示のとおり、原判示事実は原判決挙示の各証拠を総合して優にこれを肯認するに足り、原判決の証拠の取捨、その判断過程に誤りがあるものとは認められない(ちなみに、所論は、本件犯行場所が東京都内であることについても、これを認むべき証拠がないと主張するが、被告人の検察官に対する昭和五六年九月二二日付供述調書によれば、被告人は同年八月中旬から下旬にかけて東京都内に居住し、旅行などしていないことが窺われ、これに反する被告人の原審公判廷における供述は、検察官に対し上記のような供述をした理由、供述変更の理由につき全く触れるところがないので、単なる後日の弁疏に過ぎないものと認めざるを得ず、にわかに信用できない。)。

原判決に所論の事実誤認はなく、論旨は理由がない。

控訴趣意第三(量刑不当の主張)について

被告人は、昭和三五年ころ、○○会○○一家Aの杯を貰い、組員となったものの、同五一年ころからは兄貴分との不和から同一家に出入りしなくなり、最近は△△会のBとつき合うようになっているものであるが、暴行、傷害、賭博等多数の前科前歴を有し、ことに、本件と同種の覚せい剤取締法違反による原判示累犯前科があり、特段に身を慎しむべき立場にあるのに、これを顧みず本件を敢行したものであって、しかも、逮捕以来不合理な弁解に終始して何ら反省の色も窺えないことを考慮すれば、この際被告人を相応の刑責に問うのは止むを得ないところであり、所論にもかかわらず、原判決の被告人に対する量刑(懲役一年四月)が不当に重いものとは認められない。論旨は理由がない。

よって、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、当審における未決勾留日数の算入につき刑法二一条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 草場良八 裁判官 半谷恭一 須藤繁)

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